徒然雑記 第6回「社会科の授業について思うこと」

こんにちは、ゆぴるんです。

「今年イチバンの寒気」が迫ってきているそうです。(>_<)

寒いのはイヤですね。

 

さて、前回、勉強は多くの子どもたちにとっておもしろいものではなく、やる意味が分からないとよく言われる、という話にふれました。

今回は、私が塾講師時代に専門科目であった社会科から、この件について考えたいと思います。

なお、今回の文章は、塾講師時代に書いていた文章の一部を加筆・修正したものです。

 

 

「覚えるだけ」「興味ない」「大人になったら使わない」

 

これが社会科苦手人間の三大奥義です。保護者と話をしていても

「社会は覚えるだけだから」「うちの子は社会に興味がないんです」

とおっしゃる方が多くいらっしゃいました。

しかし、本当にそうでしょうか。

 

もっとも厄介なのは「興味ない」という意見だと思います。

そもそも「社会」とはどういう意味でしょうか。

辞書で調べてみると「人間の共同社会の総称。また、人間が生活している現実の世の中」とあります。

つまり「社会に興味がない」は「自分が生きている現実の世の中に興味がない」というのと同じ意味です。とても危険な意味に聞こえますね

 

それでもなお、社会科という教科に興味を持てないのはなぜでしょうか。

それは「見たことがない」からだと私は考えています

通常、人間は視覚からもっとも多くの情報を得ます。百聞は一見に如かずという言葉もある通り、「見る」ことの威力は絶大です。「見たことがない」ものはイメージのしようもありません。どれほど世界地理について語っても、歴史について語っても、イメージができなければ興味もわかないでしょう。

 

そこで、学齢期のお子さまをお持ちの保護者の皆様は、ぜひお子さまにいろいろな物を見せてあげてください。直接目にするのが一番いいですが、保護者の皆様もお忙しく、そんなにおいそれといろいろな場所に連れて行ってあげることもできないと思います。(特に、こんな世の中になってしまいましたしね。。。)

 

しかし、そこは情報の溢れる現代、インターネットやYouTubeなどを駆使すれば「見せる」だけならそんなに難しいことではありません

 

また、ここで重要なことは、さりげなく日常の中にあるということです。子どもが興味を持たないものを、「見なさい」と言って素直に見るわけがありません。自然と、いつの間にか日常の中にある、という状態が理想です。

たとえば、どこかの世界遺産の写真が壁に掛けてあったり、ある画家の有名な絵画が部屋に飾ってあったり、といった具合です。

子どもたちはどこの写真なのか、何の写真なのか、はじめはわからないし興味もないでしょう。

ところが、ある日の社会の授業中に、その写真や絵が教科書に掲載されていたらどうでしょうか。きっと子どもたちは「見たことある!」と、いつもより前向きになってくれるはずです。

 

「全然知らない」のと、「知らないけれど見たことある」のは、社会科の学習において非常に大きな差です。もちろん、そこに「興味」が加われば鬼に金棒です。もし、そんな些細な理由からでも子どもたちが世界のことや歴史のことを調べ始めたり、きちんと勉強するようになってくれたりしたら、これ以上のことはないのです。

ただし、子どもたちが本当に社会科の学習に興味を持てるかどうかは、教壇に立つ者の手腕であり、責任だという思いで、私は社会科教師をやっていました

 

また、三大奥義のもうひとつ、「覚えるだけ」。これも厄介です。

確かに、社会科は他の教科と比べて暗記事項が多いことは事実です。人名、地名、法律、年号、事件、資料、うんぬんかんぬんエトセトラ…。

また、特に歴史分野では、大人になると使わない知識が多いことも認めましょう。「邪馬台国の女王卑弥呼」という知識が仕事で必要になる場面など、多くの一般の会社員には皆無といっていいでしょう。

しかし、それでも本当に社会科は「覚えるだけ」なのでしょうか。

 

「社会に出る」という表現があります。また、「社会に出た大人」のことを「社会人」と呼びます。彼らは「覚えるだけ人間」でしょうか。

 

無論、答えはノーです。

教えてもらったことを「覚えるだけ人間」は、むしろ社会人としてはNGです。

社会人に求められる力は、自ら考え行動する力です。ですから、本来は社会科こそより実践的で、より実用的な学習であるべきなのです。それが為されていないのは教育制度の問題だ、などと言ってしまえば簡単ですが、それでは元も子もありません。社会科に限らず、現状の教育制度のなかで、そういった力をどうすれば養っていけるか。それが我々教育関係者に託された課題なのかもしれません。

 

今回は、これくらいにしておきたいと思います。

次回も、引き続き社会科の話になると思います。

 

ありがとうございました。

 

ゆぴ

徒然雑記 第5回「すこしだけ昔話」

こんにちは、ゆぴるんです。

 

私が以前学習塾に勤めていたことは前にも書きましたが、今回はその当時によく話していたことを思い出して、いつものようにとりとめもなく書いていきたいと思います。

 

私が大学を卒業した頃、父が足を骨折しました。

骨折の理由を聞くと、「お前がわしのスネをかじるからじゃ」と言われました。

うまいこと言うなぁと感心しながら、同時に、これから塾講師になろうとする息子に“オチ”をつけるなよ、と心の中で一人漫談をしつつ、

父の存在の大きさを改めて感じさせられました。

なぜなら、この何気ない一言で、私はそれまでの「息子」としての人生を振り返り、

「塾講師」としてのそれからの人生を考えることができたからです。

 

塾講師時代、3月に卒業生を送るとき、

自分を成長させてくれるのはまわりの人たちです。しかし、自分の成長を止めてしまうのは自分自身です

という言葉を”贈る言葉”としてよく伝えていました。

 

いま、自分と関わりのある誰かの顔を思い浮かべて見てください。最初に浮かんだ人物が、今のあなたにもっとも成長のチャンスを与えてくれる人物です。それから、その人物が自分にとってどんな存在なのか、自分にどんな影響を与えてくれているのかを考えてみてください。そういうことを繰り返していれば、きっと見える世界や考え方も変わってくるはずです。それが人の成長です。みなさんも、ほかの誰かを成長させられる人であってください。

と続きます。

 

いま思えば、かっこつけすぎですね。まるで曜日の時に出てくる先生のようです。

 

ですが、私は人との出会いや縁、そして他者に対するリスペクトが、人生においてとても大切なものだと信じています。

 

また、かつて私たちにとってそうであったように、勉強は多くの子どもたちにとって楽しいものではありません。

 

「勉強って何のためにしないといけないの?」

「学校の勉強なんて、大人になったら使わない」

 

多くの大人たちが、このような言葉を聞いたり、かつては言ったりしたことでしょう。

 

そういわれたとき、塾講師時代の私がよく言っていたのは、

何のためかより、誰のためにするのかが大切です」ということでした。

これは、自分が仕事をするうえでも大切にしている考え方です。誰が言ったか、「働くとは、知らない誰かの役に立つこと」だそうです。

自分自身も、何かに迷ったときは「何のためかより誰のためか」を考えるようにしています。

 

今回は、いよいよあやしい文章になってきたので、ここでヤメにしておきます。

が、せっかくなので塾講師時代に好きだった言葉を以下にならべておきたいと思います。

今後は、もう少し具体的な内容を書いていきたいと、今までの内容を反省しています。

 

・他人と過去は変えられない。変えられるのは、自分と未来!

・教師は、みずからがなお学び続けなければいけない。

・若いときに流さなかった汗は、年を取って涙になる

 

ありがとうございました。

 

ゆぴ

 

徒然雑記 第4回 「語学の話のその先(と近況)」

こんにちは、ゆぴるんです。

 

腰痛がひどくて、仙骨硬膜外ブロックという注射をうちました。

これが痛い(>_<) 

今年はワクチンなど何かと注射をする機会が多かったのですが、ダントツで一番痛かったです。

 

それ以上に、恥ずかしい (〃ノωノ) 

 

この仙骨硬膜外ブロック注射、その名の通りお尻の真ん中にある仙骨という骨に打ち込むのですが、注射を打たれるとき、

 

ズボンと下着をおろしてうつぶせになり、尻を上に突き出す

 

というかなり恥ずかしい格好をしなければいけません (/ω\)

私の場合は、注射そのものは年配の男性医師がしてくれましたが、その前の格好の指示や注射する部位の消毒は女性の看護師さんでした、イヤン

まぁ背に腹は代えられんということで、羞恥心と痛みに耐えて治療を受けてきました。

みなさんは、そうならないようにご自愛くださいませ。

 

はい、前置きが長くなりましたが、前回の続きで語学の話をしたいと思います。

前回の最後に、「電子機器の発展が目覚ましい昨今、語学を学ぶ意味はあるのか」という件について少しふれました。

確かに、ポケット翻訳機やスマホの翻訳機能はかなり充実・発達してきていて、翻訳の精度などもかなり上がってきています。

はっきり言って、日常やビジネスでのコミュニケーションを取るだけなら、スマホの翻訳機能で十分事足ります。実際、私も公私の両場面で翻訳機や翻訳機能のお世話になっています。

 

それでも、私は語学を学ぶ意味は十分にあると思います。

むしろ、趣味程度だとしても、語学は学ぶべきだと思います。

 

言語学習は、目的ではなく手段です言語はコミュニケーションのツール・手段です

コミュニケーションの基本にして最大の目的は、相手を理解するということです。

そのためには、やはり言語を理解して、その表現の特徴などをとらえる必要があると思います。

 

私は、いま日本語学校に勤めていて、ほぼ毎日海外のビジネスマンたちと英語でメールのやり取りをしたり電話をしたりしていますが、海外への留学経験はありません

ですから、私の英語は日本の学校で習ったり、自分が塾で教えていた「型にはまった英語」です。

ビジネスの会話であれば、それで全く問題ありません

それ以外の場面では、たまに「きれいな英語だね」とほめらることもあります(もしかしたら皮肉かもしれません)が、フランクな雰囲気を出せなかったり、何より、相手が使う慣用的な表現が理解できなかったりします

また、表現の違いの中には、考え方の違いも現れます。個人的な感想ですが、日本語は助詞があるので、どちらかというと名詞にフォーカスした言語だと思います。ですから、名詞と動詞や形容詞の原形がわかれば、ある程度カタコトの日本語でも伝わります。一方、英語は動詞や形容詞にフォーカスした言語のように感じます。前述の慣用的な表現が理解できないという件も、まったく意味が分からないというより、「この動詞や形容詞をここでこうやって使うんだ」という驚きのほうが大きいような気がします。

私は趣味で韓国語とフランス語をちょびっとだけかじっていますが、韓国語はやはり日本語に近く、フランス語はやはり英語に近い勉強の仕方だと思います。韓国語を勉強するときは、どちらかというと名詞や動詞の原形に注目し、一方でフランス語は動詞や形容詞のほうにフォーカスします。

 

そして、言語の学び方ですが、できれば幼いうちから英会話教室などに通ったほうがいいと思います。環境と経験は、のちのちかなり活きてくると思います。

大人の場合は、スクールに通ったりするにもいろいろな制限があると思います。しかし、現在はPCやスマホがあれば学ぶことができます。

実際、私も韓国語の勉強はYouTubeスマホアプリです。YouTubeでハングルの読み方や語順・文系などの基礎を学び、あとはアプリでひたすら練習です。

フランス語は、大学1~2回生のときに第二言語として授業を受けていたので、その記憶を頼りにスマホアプリで練習しています。

そしてつい最近、ベトナム語YouTube⇒アプリで始めたところです。(ですが、これは挫折しそうです。韓国語・フランス語もまだかじった程度ですし、なによりフランス語以上にベトナム語の発音がむずかしい(>_<)/個人の感想です)

実際、海外でも同様のやり方で言語をマスターしている人は多いようです

 

いま、私が思う課題は、せっかくこうして言語を学ぶツールは増えても、それを練習する場がないということです。

 

ですから、私は、言語を学んだ人たちが、同じ話題を共有して、気軽に話し合える場をつくりたいと思っています。

たとえば、言語の学習アプリを作って、それに紐づけする形でZOOMミーティングやSkypeのようなオンライン会話ができる場所を提供する、というようなことをしたいと考えています。

 

残念ながら、その開発スキルがありませんが・・・orz

ですから、もし私の考えにご賛同いただけて、なおかつアプリ開発などのスキルがある方がいらっしゃれば、ぜひご連絡ください

 

ということで、すこし長く、そしていつものとおりとりとめがなくなってきたので、

今回はこのくらいにしておきます。

 

ありがとうございました。

 

 

ゆぴ

徒然雑記 第3回 「語学の話」

こんにちは、ゆぴるんです。

 

インターネットが普及して、世界は広くなったと思いますか?それとも身近になったと思いますか?

 

インターネットによって、いろいろなことが手軽に、気軽にできるようになったという意味では、世界は広がったといっていいでしょう。

 

一方で、SNSなどの普及によって、別の場所にいる人たちと簡単につながることができるようになったという意味では、世界はより身近になり、狭くなったということもできるでしょう。

 

しかし、今回はそんなサイバネテックな話をしたいわけではありません。

先にあげた例で、前者の「世界」は個々人の視点から見た世界のことを指し、後者はどちらかというと「社会」に近い俯瞰的な視点での「世界」を指す、なんていうことを語りたいわけでもありません。

 

今回は、言語を学ぶ、ということについて言及してみたいと思います。

 

この1~2年、いわゆる「おうち時間」や「巣ごもり」の時間が増えたことで、英語を勉強しなおそうと思った人は多かったと聞いています。

もちろん、なかにはそれを実践してみごとにスキルアップにつなげた、という人もいると思いますが、残念ながらそうはいかなかった人もいるだろうということは、容易に想像できます。

 

それを「やる気の差」と精神論で片づけてしまうことは簡単ですが、個人的にはそれはやる気の差というより「必要性の差」だと思います。

 

例えば、英語でメールや電話のやり取りができて海外に顧客を作ることができたら給料アップ、のように、英語を勉強することに具体的な目標やテーマが与えられたら、実際に行動に移すというハードルは、グッと下がると思います。むしろ、これだけはっきりした目標を与えてもらったら、行動しない手はないですよね?

(もちろん、その他の業務などに追われて勉強の時間が取れない、といった個々の事情はあるにせよ)

 

しかし、実際はそんなにオイシイハナシがコロコロしているわけではなく、「なんとなく英語が話せたほうがいい気がするから」くらいの軽い気持ちの人のほうが多いのかもしれません。

たしかに、わかります。だって、英語(に限らず第二、第三言語)を話せたら、カッコイイじゃないですか。

 

ちなみに、私は現在日本語学校で働いていて、実際に英語を使う場面は多くありますが、英検やTOEICなどの資格は一切持っていません。(それでよく就職できたもんです)

 

一応、私もかつてのセンター試験を受験して4年制大学を卒業し、学習塾時代に英検準2級までは指導と試験監督の経験があるので、自分の英語力もぼんやりとそれくらいかなぁ、くらいの認識ではいるのですが、いかんせんそれらの試験を受験したことがないので、はっきりしません。

しかし、なんとかいまの仕事をやれています(と、個人的には信じています)。

 

それで、これは私の個人的な感覚なので、元データなどは一切ないのですが、

中3レベルの文法力と表現力があれば、英語でコミュニケーションは十分できます

 

これは聞いた話なのですが、日本の中3レベルというのは、アメリカのネイティブの小5~6年生くらいの文法力と表現力らしいです。

そう考えたら、日本の小学5~6年生って、日本語ならみなさんも普通に会話できますよね?

それに、実際に小学生と会話する場面があったら、多少なりとも目線や言葉遣いを合わせて対話しようとしますよね?

 

海外のネイティブと会話するとき、同じことを相手もやってくれます

たぶんいつもよりゆっくりと話してくれたり、単語選びにも気をつけて話してくれていると思います。

それに、わからないときは聞き返せば教えてくれます。

その辺は、私はある種の開き直りというか、個人的には結構ライトに考えてやっているほうだと思います。

(私自身も、自分の学校に通っている留学生と日本語で話すときは同じことを心がけています。日本人と話す時よりゆっくり、はっきり、できるだけシンプルな言葉で。だから、みんな同じだと思います)

 

あとは、ボキャブラリーの問題ですが、自分がどういう分野で英語を使いたいのかによって、必要なボキャブラリーの幅は異なります

例えば、スポーツでいうと、サッカーをする人がオフサイドを知らないと話になりませんが、野球をする人には必要のない知識です。一方で、野球をする人がダブルプレーやタッチアップといった用語を知らないのは論外ですが、サッカーではそれらの用語を使用しません。

 

ですから、自分がどういう目的で英語を話せるようになりたいのかを明確にすることで、自分にとって必要な知識やボキャブラリーの幅は全然違うということも、意識してほしいと思います。

(逆に言えば、目的がないなら英語を勉強する必要もない、ということです。言語は目的ではなく手段です)

 

さて、タイトルの通り、だんだんととりとめがなくなってきました。とりあえず今回は

・自分の現在の語学レベルをできるだけ把握する

・自分に必要な知識領域をできるかぎり明確にする

・コミュニケーションは一人でするものではないので、相手に頼ることで、できるだけ気楽に構える

くらいのことを言いたかったのだと思います。

 

翻訳機や翻訳アプリなどの発達も目覚ましいなかで、外国語を学ぶ意味や、具体的に外国語を学ぶ方法などは、いずれ機会があれば語っていきたいと思います。

 

これ以上書くと本当にとりとめがなくなってしまうので、今回はこの辺でやめておきます。

 

ありがとうございました。

 

ゆぴ

徒然雑記 第2回 「教育は、世界平和につながる」

こんにちは、ゆぴるんです。

 

タイトルを見て、

「うわっ、やべぃの引いたわ」

とお思いになった方もいるかもしれません (+_+)

 

安心してください、はいてm...

 

安心してください、怪しげな思想を広めようとか、そういう系の話ではありません。

 

これは、いわば私自身の、教育業界に携わることに決めたきっかけであり、

目標であり、

かっこよくいえば「信念」です。

 

今後、私がここで書いていきたいことのためにも、

今回はその話をしておこうと思います。

お時間があればお付き合いくださいませ。

 

それは、私が15歳の時でした。

当時、私は高校受験を控えていたにもかかわらず、やりたいことや将来の夢、志望校すらきちんと考えていないような、どうしようもないやつでした。

盗んだバイクで走りだしたり、夜の校舎で窓ガラスを壊して回るようなことはしませんでしたが、とにかく先のことをまったく考えていませんでした。

 

それを見かねた父が、夏休みに私をネパールという国に行かせました。

父の学生時代の恩師が、毎年夏休みにネパールを訪問し、現地の子供たちに文房具を配るというボランティア活動をされており、それに随伴させてもらったのです。

出発前は「夏休みに海外に行ける」「みんなとはちがう経験ができる」といった軽~い気持ちだった私は、

現地についてからも、初めて見る景色や日本とは全く異なる文化などに、驚きと戸惑いを感じはしたものの、どちらかというと、のんきに楽しく過ごしていました。

 

ところが、そんな私の心境を大きく変える出会いは、旅の最後に待っていました。

 

現地での滞在も終盤にさしかかったある日、私たちは首都カトマンズを離れて、とある村のはずれにある小さな小学校を訪れました。

あいにく、その小学校は休暇中で、児童・生徒はほとんどいませんでしたが、一人だけ学生が残っているということで、その人物に会うことができました。

 

そこで私たちが出会ったのは、当時17歳の青年でした。

彼は、いわれのない差別に苦しむ青年でした。当時のネパールの農村地帯では、民族問題や部落差別などが、まだ深刻に根付いていました。彼は、その出自ゆえに学校に通うこともできず、故郷に帰ることもできなかったところを、その小学校の校長先生に助けてもらったそうです。

 

そんな彼と、通訳を通して会話をすることができました。あたりさわりのない会話をしばらくしたところで、ふと彼が私に尋ねました。

 

「あなたの夢は何ですか?」

 

当時、そんなことは考えたこともなかった私は、深く考えることもなく、

「アイ ハブ ノー ドリーム」

などと答えてしまいました。

正直、彼がそのときどんな反応を示したのか、私は覚えていません。ただ、きっと失望したことでしょう。もしかしたら、怒りを覚えたかもしれません。

それくらい、軽率な発言だったと、いまでは後悔しています。

 

しばらくの沈黙の後、今度は私が彼に同じ質問をしました。彼の答えは、

僕の夢は兵隊になることだ。兵隊になって、敵を倒し、愛するものを守りたい。」というものでした。私は愕然としました。さらに彼は続けます。

でも、本当は戦いなんてしたくない。話し合いで解決したい。けれど、僕は学校に行っていないから、勉強をしていないから、それはできない。君は勉強ができてうらやましい。」と。

そのとき、私の胸に、悲しみと怒りが押し寄せてきたことを覚えています。

自分とそれほど変わらない年齢の青年が、これほどのことを抱えていたこと、抱えてしまっていることへの悲しみ。そして、そんな世界があることも知らず、「ノー ドリーム」などと平気で口にした自分自身への怒り。この経験が、私を教育の道へ進ませたことは、言うまでもありません。

 

私は、今の子どもたちにもこのような経験をしてほしいと思います。けれども、それは決して海外へ行けということでも、重たい過去を背負えということでもありません。

 

自分の“ルーツ”と呼べる経験をしてほしいのです。

 

大人になったとき、「あの経験があるから今の自分がある」といえるものに出会ってほしいのです。

私の場合は、たまたま異国での経験がそうなっていますが、それはどんなに些細なことでも構わないと思います。部活動で毎日夜遅くまで頑張っていたから、どんなきつい仕事でも乗り越えられるとか、この味がいいねと君が言ったから今日は二人のサラダ記念日だとか、そんなことでいいと思います。

 

どんなことでも、自分にとって「ちょっと特別」な経験が、未来につながっていくのだと、私は信じています。

そんな「ちょっと特別」な経験が、私との出会いや関わり合いであれば、これ以上の幸せはないと思って、私は教育に携わる仕事をしています。

 

すこし長くなってしまいましたが、これが、私が「教育は世界平和につながる」と信じる理由です。

 

ともあれ、マザーテレサも、マララ・ユスフザイさんもノーベル平和賞を受賞されているわけですから、

あながち間違った信念ではないと、私は思っています。

 

このように、自分の経験なんかを踏まえて、いろいろなことを今後も書いていきたいと思います。

 

ありがとうございました。

 

ゆぴ

 

徒然雑記 第1回 「自己紹介」

こんにちは、ゆぴるんです。

 

ブログを始めるにあたって、

とりあえずかんたんに自己紹介などを書いていきます。

 

私は、いわゆる教育業界で働いています。

大学を卒業したあと、新卒でとある学習塾に就職し、

教室長なども勤めました。

専門科目は中学社会でしたが、

小2~中3までの、国語、算数/数学、英語、社会

の授業を担当していました。

 

その後、転職を経験し、日本語学校の事務職員として、

海外からの留学生募集と日本で生活する留学生の生活指導

などをしています。

 

そういった経験から、主に教育関連の内容について

私が考えていることなどを書いていきたいと思います。

 

あくまで私の個人的な意見ですので、

異論をお持ちになる方もたくさんいらっしゃると思いますが、

どうかお手柔らかにお相手いただけると幸いです。

 

よろしくお願いいたします。

 

ゆぴ

徒然雑記 第0回 「ブログ、はじめました」

こんにちは、ゆぴるんです。

 

さまざまなことに振り回された2021年も、

早いもので残り1か月となりました。

急に、寒くなりましたね。

 

それで、ブログをはじめました(*^-^*)

「それで」の部分がなんの説明にもなっとらんやないかい!Σ(゚Д゚)

とお思いだと思いますが、それはおいおい語っていきたいな、と思います。

 

ここでは、「教育」に関連する分野と、私の趣味などについて

徒然なるままに書き連ねていきますので、

お時間があるときに、ゆるい気持ちで読んでいただけると幸いです。

 

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

ゆぴ