徒然雑記 第9回 「国語について思うこと その2」

みなさん、こんにちは。ゆぴるんです。

 

前回からすこし時間が空いてしまい、その間に年が変わってしまいました。

年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。

今年も、自由気ままに書いていきたいと思います。

 

さて、前回に続いて今回も、国語の力や授業について私見を述べていきたいと思います。

 

みなさんは、「国語が得意な子」と聞くと、どんなイメージを持ちますか?

 

私の経験では、こんな答えがよく返ってきました。

 

「読書をよくしていて、落ち着きがあり、物静かな子」

 

果たしてこれは正解でしょうか。

もちろん、人にはそれぞれ個性がありますし、一概にはいえませんが、それを承知の上で、私の経験からあえて答えを提示しましょう。

 

私は正解ではないと考えています。ただし、完全に間違いでもありません。

 

ひとつずつ見てみましょう。

まず「読書をよくする子」。これは正解です。本を読むと、それだけたくさんのボキャブラリーが身に着いたり、さまざまな文章表現に触れたりするわけですから、その分経験値がたまります。何をするにしても経験値というものは重要ですから、読書をして経験値をためれば、それだけ国語が得意になる可能性は大きくなります。

 

次に「落ち着きがある子」。これも正解です。前回述べた通り、国語の最大の学習は「まとめ、整理、伝達」です。特に前半の二つ、「まとめ、整理」は落ち着きがなければできませんから、落ち着きがある子はそれだけ国語の学習に必要な要素を持っているということです。

 

最後に「物静かな子」。これは、必ずしも正解とはいえないと、私は考えています。私の経験から言えば、よくしゃべる子にも国語が得意な子は大勢いました。むしろ、記述問題や作文など、いわゆるアウトプットの能力を試す問題では、そういう子のほうが、少なくとも文字数をたくさん書くという面では、よく書いていたという印象があります。私自身も、少年時代は「物静か」とは程遠い性格でした。それでも国語が得意だったのは、「父の質問」への回答と「約束の日記」によって、落ち着いて考える習慣とアウトプットする力が培われたからに違いないと思います。国語は、「文章を読んで筆者・作者の意図を答える」という点が特徴的にとらえられることが多いため、「読む」というインプットの力が重要だと思われがちですが、実はそれと同様に、ともすればそれ以上に、アウトプットの力を養っていくことが重要です。

 

このように言うと、国語が苦手な子どもがよく口にするセリフがあります。

「国語は数学みたいに答えがはっきりしないから苦手」「答えがひとつではないから嫌だ」というものです。本当にそうでしょうか。

 

少なくとも、受験科目・試験科目としての国語についていえば、これは正しくないと私は考えています。テストである以上、必ず正解か不正解か、マルかバツかという基準が存在します。それは当然「はっきりとした」基準として設けられています。解答の字数や指定された語句の使用の有無、文末表現などがその代表です。

もちろん、解答の内容も「与えられた文章の○行目から○行目を読み取っていないとバツ」、「問題文での指定はないが、この語句(あるいは同意語)を使っていないとバツ」といった明確な基準のもとに採点は行われます。

つまり、解答に至る道のり、解き方のプロセスはおのずから決まってくるということです。国語が苦手な人や、国語に対して「はっきりしない教科」という意識を持っている人は、ぜひ一度まわりにいる国語の先生に「解き方」を教えてもらってください。

 

一方、先程「はっきりしている教科」の代表格として挙げられた数学にも、「別解」が存在します。これは多くの場合解答に至るプロセス、すなわち用いる途中式や図形の見方のアプローチが違うという解答です。

 

これは旅行に例えるなら「現地集合」といえるでしょう。目的地までの交通手段は自由ですが、時間どおりに指定された場所にたどり着かなければいけないのが数学です。

逆に、「目的地から自由行動」、これが国語です。目的地までは同じ交通手段、解答のプロセスをたどりますが、そこからある程度の自由が許される。修学旅行と同じです。

 

国語は決して「はっきりしない」教科ではありません。トレーニング次第で確実に力をつけられる教科ですので、才能やセンスといった言葉で諦めることなく、ぜひ頑張ってほしいと思います。

 

今回はこのくらいにしておきたいと思います。

 

ありがとうございました。

 

ゆぴ